日本人の神

昔、旅をして、ある木を見た。「伊那谷の大柊」だ。見てスゴイと思うと同時に、「神々しい」と思った。神か…? 樹高12メートル、胸高直径3、4メートル。樹齢は四百年から五百年余といわれている。

かつてこの国にはいたる処に無数の神がいた。木や岩や森や山に、当たり前のように神を見ていた。その神々は、多くの大陸の一神教的な強力な神とは大きく性質を異にしている。日本人にとって神とは、信じるものだけに救いの手を差しのべてくれる排他的な神ではなく、じっと人々を見守るだけの存在、まるで、あの「大柊」のようなものではないか。だから、この国の人は、「バチが当たる」「神様は見ている」と言い、聖書や十戒も必要とせず、道徳心や倫理観を育んでこられたのだと私は思う。神は見えなくても、常に人とともにおり、人とともに暮らす身近な存在だと思い、古代から、路傍の石や森の大樹をはじめ、山や滝や、あらゆる物に手を合わせてきたのである。神と仏を区別する議論や、日本人が宗教を持つ民族であるか否かの議論そのものより、私は、この国は今度こそ、本当の意味で「無宗教」になりつつあるのかもしれない、と最近思う。

「神様が見ているぞ」と教え諭す人が、いなくなった。見えるものしか信じなくなった。

神様がいると感じることは、世の中には見えないものもある、と感じることで、これが、自分の生きている世界に対して畏敬や感謝の念につながる。コロナの最中に、必死で戦っている洛和会の職員に、また、全ての医療従事者に、神を感じ神々しく思えるのは、私だけであろうか。

洛和会ヘルスケアシステム 会長 矢野 有洛