洛和会丸太町病院 設立50周年記念ページ
洛和会ヘルスケアシステム 理事長挨拶
もう早くも50年たったかと思うと感無量です。思い出せば、私がまだ中学生の頃だと思います。旧丸太町病院の屋上で、完成就業パーティーをしていたのを覚えています。「なんか派手なパーティーだった」と、その時は中学生だったので思いました。でもその後、かなりたってから親父(先代理事長)より洛和会丸太町病院を作ったときの、苦労話を聞かされました。50年前というと、病院と開業医とは、今のように持ちつ持たれつの関係ではなく、全く敵としての関係だったそうです。
中京西部医師会でも、患者をとられると猛反対がおこり、先代に聞くと、病院の前に毛虫のかたまりをまくとか、今では考えられないような反対にあったみたいでした。(これよりももっとひどい、ええー?! と思うことも聞きましたが。)
その後、地域の開業医の先生方とは、あまり関係を持たずにきたようでした。洛和会丸太町病院が大きく飛躍したのは、その当時、京都ではどの病院も手をつけていなかった救急でした。今はなくなりましたが、大和病院と洛和会丸太町病院が、京都で初めて扱うようになったそうです。昭和40年代前半は、信じられないことに、京都でこの2つの病院しか救急を扱っていなかったそうです。
私も医師になってから、一度洛和会丸太町病院の当直をしたことがありましたが、それはもう、壮絶な戦いでした。まるで戦争映画で観る野戦病院のような一晩でした。
そこで実績と実力をつけて、洛和会は昭和55年にグループ第2番目の病院として、洛和会音羽病院を作った次第でした。
私が理事長になってから38年。病院もいろいろありましたが、何とか皆さまの協力で乗り越えてこられたことを、この場を借りて感謝したいと思います。
でも、これから50年先は全くわかりません。戦後72年、なんとかやっていた日本が、どうなるかわからんのです。そのなかで、どうしても日本人にとって必要な医療と介護をわれわれはやっております。これから先、50年続けていかねばならないという義務感は持っておりますが、皆さまのご協力が必要不可欠です。よろしくお願いいたします。
最後に、この日本で50年後も、国が滅びることなく、日本の医療も崩壊しないことを願ってやみません。
洛和会ヘルスケアシステム
理事長 矢野 一郎